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「武器としての教養」をキャッチフレーズに”ジセダイ”の若者に向けて、様々な分野の知識を提供する星海社新書。この星海社新書の著者へのインタビューシリーズ第2回は、『一億総ツッコミ時代 』で、目立つ言動に何かと「ツッコミ」が入る現代社会の息苦しさを指摘した芸人・マキタスポーツこと槙田雄司氏に話を聞きました。【取材・執筆:永田 正行(BLOGOS編集部)】

楽な位置からツッコミをするのは「もう退屈」


―最初に、『一億総ツッコミ時代』がどんな本か、簡単に教えていただけますか?

槙田雄司氏(以下、槙田):お笑い芸人の「ボケ」や「ツッコミ」という役割を、現在ではみんな当たり前に認識していますよね。その中でも、「ボケる」というのは、割と難しいと思うんですよ。お笑い芸人自身も「ツッコミ」よりも大変だと思っていますから。「ボケきっている人の方が価値がある」というのは、お笑い芸人の中でも共通認識です。

でも今は、みんながみんなツッコミをしたくなっていて、そのツッコミを発信できるTwitterのようなツールがたくさんあります。もちろん気の利いたツッコミやおもしろいツッコミをみんな入れるのですが、匿名ですし、その発言に責任を負うことはありません。そういう風潮を気持ち悪く感じていました。

こういう風潮って現実の世界でもありますよね。オチのない曖昧な話をすると、「オチはないの?」というツッコミが入ったりする。しゃべっていて、少し噛んだからと言って、「いま噛んだよね」とつるし上げてしまう。でも、実はその先におもしろいことがあったりするんですよね。

だから、楽な位置からツッコミをするのは「もう退屈だろう」と。ツッコミに関しては、十分に言葉を尽くして遊んだというイメージがあるんです。その先に行くためにも、次のステージとしてボケにも目を向けて、思いやることも重要なのではないか、ということを書いた本です。

―芸人さんが本を書く場合、普通は自叙伝のようなものが多いですよね。しかし、『一億総ツッコミ時代』は社会批評のような内容で、いわゆる芸能人本としては珍しいケースだと思います。執筆のきっかけなどがあれば教えてください。

槇田:現在の状況に対して、以前から漠然とした違和感があったんですよ。あと、僕自身が保守的で機械に弱い、ネット社会にうまく乗れなかった人間ということも大きかった。ITが生活に浸透していく社会から、”置いていかれた身”として、観察する側に回らざるを得なかったんですよ。お笑い界においても、ブームにも乗っていけませんでしたし。

でも、常に中心ではないところにいたからこそ、気付けることがあり、同調圧力に敏感な自分がいたんですよね。現在の「ツッコミ過多」になっている状況を、否定するわけではありませんが、無責任な言説が垂れ流しになっている側面も指摘したいと思ったんですよ。「ちょっと待てよ」っていう部分を感じて、それを口に出したくなったんです

それは他の芸人がやらないから、僕が言うんですよ。いわゆる”芸人本”には、小説やネタ本など様々なパターンがあると思います。そうではないものを作りたかったし、発信したかったし、それができる資質もあったから、こういう本を出せたんだと思ってます。

―ブログを書いたり、Twitterで積極的に発言した経験がある人たちにとっては、現在の「ツッコミ過多」の状況の息苦しさについて共感できる部分があると思います。「ツッコミ過多になっているなぁ」と特に実感した瞬間や意識するきっかけとなった出来事はありますか?

槙田:素人さんが「あ、噛んだ」とツッコミをしてくるケースが結構あるんですよ。僕らは言われて当然だと思いますが、「なんでこの人たちは、そんな専門用語を使いこなせているんだろう」って思いましたよ、最初は。お笑い芸人がやっているボケやツッコミを一般の人たちが使いたがる心理を、すごく興味深く感じたんですよね。例えば、女子高生なんかも、「ツッコミがきついよね」とか「いま噛んだんですけど」とか、そういうやり取りを電車でしている。

ただ、そういうツッコミが、自分のポジションを確保するようなゲームにすり替わっているケースというのもいろいろ見てきたんですよ。だから、「多少噛んだって良いじゃん。その先におもしろいことがあるんだから」と、僕は思ったんですよ。そうやってツッコミばっかりしていたら、「退屈なんじゃないかなぁ」と。

ネットの普及で、いろいろなツールがそろい、どんどん個人をアピールすることができるようになった。だから、僕は現代を「表現の時代」だと思っています。自己表現によって、自分を作品化できる時代だと思います。そう考えた時に、いつまでも「ツッコミの差異ゲーム」をしていても仕方ないと思うんですよ。

僕はプロの表現者ですが、そうではない人も表現を好む気持ちって、絶対にあるはずなんですよ。今は、色んな便利な方法やツールが出てきて、表現がしやすくなっているわけですから、その中でより質の高い表現を目指していけばいいと思うんですよ。もっと言えば、ノロマなことをやっているジャンルがあるなら自分たちでビジネスを作ってしまえば良いのではないか、と思うんです。

例えば、音楽的な修練や教養、価値観の体系の中で、ビジネスが行われている世界があるじゃないですか。それは既得権ですよね。ボカロをやっている人たちは、そこに入っていって得をすることはないでしょう。でも、手続き上、めんどうなことを取っ払った上で、パソコンでおもしろいことを発表できるじゃないですか。そこでビジネスを展開することも不可能じゃないという段階にまで来ている。それはすごく良いことだと思いますし、そうなっていけばいいと思うんです。でも、その一方で、言葉だけ弄んで、「ツッコんでるだけ」の人もいます。そういう人たちは、「そのままで良いのかな」と思うんです。

―本書では、ツッコミ過多になっている現状を踏まえて、「もっとボケ側にまわりなさい」あるいは、「もっとベタなことをやりなさい」ということを主張しています。これについて、もう少し詳しく説明をしていただけますか?

槙田:誰かがやっていることに対して関心を持つことは、誰でもある程度はあると思います。でも、こんなに自分を表現できる時代もそこまでない。だったら、自分を「作品」と考えて、自分にとってどうなのかを考えた方が良いんじゃないかって。

「ベタなことをやれ」っていうのは、レトリックとして言いましたけど、例えば、僕自身は結婚というベタな行事をやってみて、結婚こそ一つの作品だって感じたんですよね。これを管理・維持するのは大変なことです。どんな夫婦にも”心のガザ地区”みたいなものがあって、ふたりで一触即発なムードのことがよくあります。それでも、僕にとってかけがえのないものですし、管理・維持することでいろいろな発見がありました。

子供を育てることもベタなことですよ。よく「自分探しの旅で、インドへ…」なんて言いますけど、インドに旅立たなくても、子供って”インド”ですよ。もうわけわからないですから。そんな風に身近なところにインドがあったりするわけです。僕は、「子供のためにお金を稼ぎたい」と思うんですよ。これはベタなフレーズですが、稼ぎがあるというのはうれしいことですよ。持っている時計や車をもっと良いものにしたいとも思います。これはすごく当たり前のことを言っていますが、自分や自分の家族という作品に対しては、必要なことなら絶対にやります。そういうベタなことって大事だと思うんですよね。

物事を一歩引いてみるメタが行き過ぎて、地球の裏側のことを思いやってみたりするじゃないですか?ああいうのは嘘っぽいですから、もっと「身近な人を幸せにするべき」だと思います。

―確かに、日本全体や世界単位で物を語ってしまうと、どうしても現実感が薄れてしまいますね。

槙田:そういうことはよく田舎の議員がよく言いますよね。本でも書いたように、「良い・悪い」というのは、割と超越的な視点での物言いじゃないですか。それよりも、あえて「好き・嫌い」を語る必要があると思うんですよ。それはすごく自分にとっては傷つくことだし、傷つけることですが、そこを芸で補うんです。表現を磨けるはずですから。

なんでも究極的には、「好きか嫌いか」です。でも、人を傷つけてはいけないし、自分も傷つきたくない。そういう思いやりはあってしかるべきですし、そういう時に芸が相手を救うし、世の中を動かすと思います。自分とは関係のない地球の裏側について語るより、今は二人称的な表現の方が効力を発揮できると思うんです。

―日本の場合「出る杭は打つ」傾向があるとよく言われます。

槙田:確かに政治や経済も良くないですからね。だから、若い人が、くだらない言葉の差異ゲームに没頭せざるを得ないっていう側面もあると思いますよ。夢を描けていないと思います。僕らの時代でも、「最近の若者はだめだな」と言われていましたが、それはバブルの時代ですからね。もっと天真爛漫でしたよ。

今の子たちは、リスクがあると動かない。本の中でも、「ノーリスク、ハイリターン」と書きましたが、基本的に今の子たちは、コストを考えて行動しているんじゃないですかね。大人がそうさせてしまっているんです。だから、ボケきる若者が出てこれないんですよね。