想像力の向こう側

もちろん、真意は自殺した(かもしれない)彼にしかわからない。だから以下のことは、あくまでも私の推測である。

ブログ主はおそらく、想像できなかったのだ。あるはずの選択肢を除外したのではなく、最初から選択肢などなかったのだ。

って書くと、銀座の高級店くらい思いついてもいいだろと思うけど。だけどやっぱり彼は、「銀座の高級店に入る自分」というのを、思いつかなかったのだと思う。思いつかなかったというか、上手く思い描けなかったというか。その姿を、リアルに想像することができなかったのだと思う。

同じように、「バックパッカーになって世界一周する」ことも、「5000円のヨーグルトを取り寄せてみる」ことも、おそらく頭に浮かぶことさえなかったのではないかと思う。「そういうことをやるより、1日でも長く生きたかった」のではなく、「そういうことはそもそも思いつかなかった」のだ。

人間は、想像力の範囲内でしか動けない。

イタリアをリアルにイメージできない人は、イタリアに行く意欲なんてわかないから、イタリアに行けない。5000円のヨーグルトがあることを知らない人は、そんなものを頼むことをそもそも思いつかない。『シン・ゴジラ』が上映していることを知らなかったら、怪獣映画を観に映画館に足を運ぶことはない。知っていることしかできない。知っている範囲でしか動けない。想像力の向こう側には行けないのだ。

もちろん、この世のすべてを知り尽くすなんて神じゃない限り不可能である。だから私たちは例外なく、常に何かを知らずに、何かを見落として、何かの可能性を潰して生きている。それはしょうがない。彼が惨めだとも思わない。私にだって、想像力の限界がある。自殺するんならその前に世界一周したいけど、ある人は「世界一周ごときで済ますの?」と私を気の毒に思うだろう。でもその人だって、やっぱり想像力には限界があって、それはだれだって同じで、だれかの想像力の貧困さを笑える人間なんていないのだ。「ファミレスのハンバーグ」はだから、彼がリアルに想像できた範囲内では本当に、この世でいちばん贅沢な食事だったのだと思う。

想像力には限界がある。想像力の向こう側へは行けない。

だから、まだ知らないことを悔しいと思う。すでに知っていることを尊いと思う。全部はちょっと処理しきれないけれど、だれかが教えてくれたものは試したいと思う。自分も知識の出し惜しみをせずに、(余計なお世話にならない範囲で)だれかに教えてあげたいと思う。今日より明日の世界が豊かでありますように、今日より明日の選択肢が広がっていますように、と願う。

ブログ主が最後のエントリを更新したのは夏だった。私がそれを読んだのも、夏だった。だから夏になると毎年思い出してしまう。あの、ファミレスのハンバーグのこと。

(1つ言うんであれば、想像力の限界を突破できるものも私は知っている。それは他者がもたらす「偶然」である。他者は人間であることが多いけれど、必ずしも人間であるとは限らない。でも長くなるので、その話はまた別の機会に)