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 家族みんなで一カ月ほど遊んで非常に楽しかったので、『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』(以下、本作)について、遊んだ感想を書き残しておきたくなった。
 

筆者の立ち位置

 
 ゲームの感想は、どういうプレイヤーがどういう経緯で遊んだかが重要だと思うので、少し書いておく。
 
 私はファミコン時代からずっとゲーム漬けだったが、任天堂の熱心なファンではない。『ゼルダの伝説』シリーズは、ファミコンディスクシステム時代はやり込んだけれども、スーパーファミコン版以降の、謎解きを強制する雰囲気が好きになれず、敬遠していた。
 

リンクのボウガントレーニング+Wiiザッパー
リンクのボウガントレーニング+Wiiザッパー 
 ところが、数年前にプレイした『リンクのボウガン』が期待以上に面白かった*1。しかも、「本作は、ファミコン版の『ゼルダの伝説』に先祖返りしている」という噂を聞いたので、すごく久しぶりに買ってみたのだった。
 
 なお、私はいわゆるオープンワールド型のRPGをやりこんでいるわけでもない。『Oblivion』や『Skyrim』は大好きだが、『アサシンクリード』や『Fallout4』は遊んでいない。シューティングゲームを中心にまんべんなく遊んできた、中年ゲーマーの感想であることを断っておく。
 
 

「うへー!日本人の仕事だ!任天堂臭い!」

 
 この『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』の第一印象は、「これは、任天堂臭いゲームだ!」だった。
 
 nintendo switchの、オモチャ然とした、しかし良くできているコントローラーからして任天堂臭い*2。ゲームをスタートし、リンゴやドングリを拾って焚火にくべたり、斧で木を切り倒したりしていると、それだけでも楽しい。が、早くも、「ほら、リンゴを取ってくださいね? はい、次はお料理の時間です。 さて、次は木を伐りましょう……」と見えないチュートリアルに誘導されてゲームを遊んでいる感がある。
 
 
 

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 もちろん、昨今のゲームにはしばしばチュートリアル機能がついているし、チュートリアルとは、そういうものだろう。本作の導入部は、そのチュートリアルの手つきが自然、かつ、行き届いていて、よほどひねくれたプレイヤーでない限り、必要な行動を適切な順番で体験できるよう、計算された造りになっていた。プレイヤーの行動を、制約によってではなく、専ら意欲によって牽引する、その手つきの完成度がハンパない。
 
 「うへー!日本人の仕事だ!任天堂臭い!」とは思ったが、感心せざるを得ない。
 
 ちなみに、ここでいう「任天堂臭い手つき」とは、スクエア&エニックスのチュートリアルの手つきとも、ベセスダのチュートリアルの手つきとも違っている。うまく言えないのだが、たとえるなら、本作のチュートリアルは、ちょっとお節介なおばさんが、ニコニコしながらゲームの手引きをやっているような雰囲気がある。他社のゲームでチュートリアルをやっていても、“お節介おばさん”を連想することはない。だが、本作のチュートリアルは、任天堂っぽいBGMや演出も相まって、“お節介おばさん”をどうしても連想してしまう。
 
 で、ゲームを先に進めても、行く先々で、この、“お節介おばさん”の意志というべきか、無言の干渉というか、そういったものを私は感じ取ってしまったのだった。
 
 本作『ゼルダの伝説 Breath of the Wild』は自由度の高いオープンワールドなゲームと言われている。それは事実として間違っていない。プレイヤースキルの非常に高いプレイヤーにとっては、とりわけそうだろう。
 
 だが、一般プレイヤーである私にとっての本作は、見た目ほど自由度の高いゲームではなかった。いや、自由度そのものは高いが、「おまえは、ハートの器も装備も不十分だから、ここから先には進んじゃ駄目だよ」という任天堂の見えざる意志に遮られながら、あるいは任天堂の意志に逆らいながら、ゲームを進めていくような感覚が先立った。
 
 モンスターの体力や攻撃力。
 手に入る装備。
 崖の高さ。
 絶妙な地形配置。
 シーカータワーや祠の位置関係。
 などなど。
 
 それらのオブジェクトの絶妙な配置の結果として、本作は、プレイヤーが十分にゲームに慣れるまでは、無茶がしにくく、しなくても良いようにようにつくられている
 
 「登りにくい崖があったら、それは後回しにしても構わないし、後回しにすべきなのです。勝てない敵に出くわした時は、避けて通るか、余所をあたってみましょう。それより、あちらにシーカータワーが見えるでしょう? あちらに登りましょうよ?」
 
 ……そんな、チュートリアル担当の“お節介おばさん”の声が聞こえるような気配が、ゲーム全体に漂っている。オブジェクトの配置があまりにも行き届いているからこそ、極端に難しいことに出会うたびに、「この難しさは、任天堂による意図的な配置だから、きっと今すぐやらなくても良いのだろう」……などと考えてしまう。
 
 この、すべてのオブジェクトが意図的に配置されている感覚は、よくできたショッピングモールをぶらつく時の感覚に似ている。一見、無駄にみえる構造物やデザインにも必ず理由があり、ショッピングモール内部の人の流れは、そういったデザインや配置によってコントロールされている。徹底的に計算された空間では、本心のままにぶらつこうとすればするほど、構造物やデザインによって流されていく。
 
 はたして、カカリコ村やハテノ村を目指した私の序盤の冒険は、どこまで自由意志によるものだったなのか? どこから、任天堂がオブジェクトを配置してデザインした、コントロールに基づいた冒険だったのか?
 
 そこらへんが曖昧なまま冒険が進んでいくので、私は「これは任天堂の仕業だ!」「これも任天堂の差し金だ!」とつぶやきながらゲームを進めていた。そのうち、子どもも同じことを言うようになった。すまない。
 
 後述するように、実際に本作はオープンワールドゲームではある。だが、考え抜かれ、配慮され尽くしたデザインのために、特に序盤は、プレイヤーの行動に介入してくる“お節介おばさん”の意志をひしひしと感じた。本作の被-コントロール感は、外国産のゲームではあまり感じない類のもので、一昔前の国産ロールプレイングゲームにありがちな、ストーリーラインに束縛された感覚とも違っていた。
 
 どうあれ、このゲームのサブタイトルは「Breath of the wild」よりも「Breath of the Nintendo」のほうが似合っているように思った。あるいは「おばさんの吐息」とすべきか。