『ザ・ライバル』ダスラーVSダスラー ~プーマとアディダスの兄弟対決~より

1951年「アディダス」はフィンランドの会社より3本線の商標登録の権利譲渡される。1970年以降、スポーツ用品がビッグビジネスになるにしたがってアドルフの息子ホルスト・ダスラ―が経営を引き継ぎ、巨大スポーツ広告代理店を設立しIOC会長やFIFA会長やIAAF(国際陸上競技連盟)会長と太い人脈を持つようになりこの時期、アディダスは売り上げ世界一のスポーツメーカーになる。

ホルストが51才で急死した後、経営は混迷を深め1993年フランス人実業家のドレフュスが経営権を握り黒字に転換する。


『ザ・ライバル』ダスラーVSダスラー ~プーマとアディダスの兄弟対決~より

一方、プーマも大スポーツイベントでの展開を徹底化しアディダスに迫るものの抜き去るには至っていない。1974年創設者ルドルフ・ダスラ―が死去。長男のアルミンの下で急成長したがアメリカおける大量の安売りが災いしブランド価値が低下しスイス企業に売却される。

しかし、その後コストカットやマーケティング戦略が功をそうして2003年には1993年の16倍以上の株価上昇を遂げるに至る。

ナイキに受け継がれる日本企業のDNA

このドキュメンタリーから話は飛ぶが今やスポーツ用品の世界一のメーカーとなった「ナイキ」社はスタンフォード大学で経済学を学んだフィル・ナイトと、オレゴン大学・陸上コーチのビル・バウワーマンがブルーリボンスポーツ(BRS)社を設立。在学中にナイトは論文「日本の運動靴は、日本のカメラがドイツのカメラにしたことをドイツの運動靴に対しても成し遂げ得るか」を書いた。

卒業後に早速日本の神戸に出向きオニツカタイガーの品質と低価格を気に入り、1962年にオニツカの米国販売権を取得するなどした。

しかしその後、長年に渡り両社間の法的紛争は絶えず現在は終息に向かっている。ナイキが初期に日本のオニツカタイガーに創業のヒントを得たのは間違いない。そう、ナイキのDNAに日本のオニツカタイガーのDNAがしっかり受け継がれているのである。