陳腐な光景と滑りやすい坂

森友学園問題に対する官僚の不誠実な対応や、共謀罪の法制化をめぐる担当大臣のいい加減な国会答弁をはじめ、驕り高ぶる政治家や官僚たちの言動が甚だしい。民主主義の悲劇か喜劇かは別にして、こうした言動は日本の政治の見慣れた光景になりつつある。しかし、果たしてそれは日常茶飯事として済まされる問題なのだろうか。表沙汰となる陳腐な光景の背後で、この国の民主主義に何が起きているのか考えてみたい。

例えば、現在国会で審議されている、いわゆる共謀罪。これは、多くの法律の専門家たちが警告しているように、現行の民主的憲法下での刑法体系を大幅に変更することで、それが課してきた統治権力――一般にこれは執行権力、立法権力、司法権力に分類される――に対する統制を緩め、取り締まりの権限を個人の内面にまで拡大させる可能性がある。あるいは、まだ記憶に新しい安保法制。これも、法律の専門家たちのほとんどが指摘したように、統治権力を憲法によって統制する立憲主義という民主的原則を破るものであった。これらの二つの事例が示唆しているのは、端的に次の事態ではないだろうか。すなわち、統治権力、その中でも執行権力が立憲主義や三権分立といった、自由主義の伝統に依拠する統制から徐々に自らを解放しようとしている事態、そして同時に、自らの目的と利益のため望むままに行動する自由を手に入れつつある事態だ。

ことの深刻さを理解するには、次のような理論的かつ歴史的な事実、しかもきわめてシンプルな事実を思い出す必要がある。すなわち、統治権力はその本質として、そうした自由を常に求めるものであり、さらにそれが統制から自由になればなるほど、私たちの社会の自由は失われ個人の尊厳は奪われていく、という事実だ。さらに不吉なのが、民主的統制という箍がいったん外れ、人びとの自由を制約する執行権力の自立化が始まるなら、この事態は滑りやすい坂をひたすら転がり落ちるように悪化する可能性があるということだ。

歴史を振り返ってみる

統治権力の民主的統制からの現在の自立化はどのように始まったのだろうか。まず確認しておくべきことは、この事態は統治権力、その中でも執行権力の強大化を前提にしているということだ。例えば、近年の日本の民主主義の制度面にフォーカスするなら、1994年の小選挙区制導入とそれによって促進された幹事長および党執行部への権力の集中や、阪神淡路大震災後を契機とする首相官邸機能の強化などによって内閣および首相の権力の拡充が進められることになった。これらの改革が間接的にせよ直接的にせよ、現在の日本の執行権力の肥大化の近景と考えられるだろう。しかし、その点については立ち入らず、ここではより広範な視点から近代の民主主義における統治権力、その中でも執行権力の肥大化の背景を簡単に指摘しておこう。

遠景とも言うべきその要因は、巨大化し複雑化してきた社会を統治する近代国家の発展にある。周知のとおり、近代国家の統治機構の発展は、絶対王政の下での軍隊を賄うための徴税の制度化とそれに伴う官僚制の組織化を中心にして進められたが、これを機に三権のうち、特に執行権力は強大化することになる。さらに、18世紀以降、国力の問題が人口との関係で論じられるようになると、近代国家の統治を司る執行権力は人口の管理のためにいっそう肥大化し始める。この傾向は紆余曲折があったとはいえ、最終的には19世紀後半から20世紀の二つの世界大戦を経て完成される福祉国家化によって絶頂を極めることになる。その後、肥大化した統治権力はグローバリゼーションの進展と新自由主義による批判に晒されながらも、治安や防衛面において依然として強大なままであると言えよう。

こうした背景の下で、絶対王政の統治権力に関しては、三権分立や立憲主義の原則によって統制がなされてきた。また、民主的な国家の統治権力に関しては、それらの原則に加え、国民の代表者からなる立法権力の執行権力に対する優越という原則の確立によって、強大化する統治権力、その中でも、執行権力に対する統制が試みられてきた。これは現行の日本国憲法にはっきり見て取れる。もちろん、こうした取り組みが易々となされたわけではない。なぜなら、統治権力は統制から逃れ、自由になろうとする本来的な欲望を持っているからである。