ミサイル発射が続き、緊張感の増す北朝鮮情勢。金正恩体制はいかにして構築されていったのか。金正日の時代にさかのぼり考察を重ねていくと、極度なまでに過激にならざるをえなかった事情が見えてくる。その過激さに表れているのは、金正恩体制の「強さ」ではなく「弱さ」だった。
(出典:文藝春秋オピニオン 2017年の論点100

 二〇一六年、北朝鮮は二度の核実験を行い、ミサイルを発射し続けた。経済水準が低く、経済制裁も続く中、「金正恩体制はどのくらい強固で、日本にとって危険な存在なのか」としばしば問われる。結論から先にいうならば、金正恩はじわじわと追い込まれ続けていて、核実験やミサイルの乱射、そして相次ぐ高官などの粛清は、彼の「強さ」ではなく、むしろ「弱さ」のあらわれと考えた方がよいだろう。それを解く鍵は、「先祖返り」と「市場化」という、相反する動きにある。


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「金日成への回帰」は金正日が計画した

 二〇一六年五月、朝鮮労働党は三十六年ぶりに党大会を開催した。つまり金正日時代には一度も党大会は開かれなかったのである。この第七回党大会で、金正恩は、労働党委員長、党中央委員会委員、政治局常務委員兼政治局委員、秘書局第一秘書、軍事委員会委員長に選ばれた。

これは党大会という制度的手続きによって、金正恩が党の最高指導者に選任されたことを意味する。そこでは国家経済計画が発表され、中央指令型経済が復活。さらに「万里馬」と「二百日戦闘」という大衆運動の実施が掲げられた。これは「万里を駆ける馬のような勢い」で「二百日という短い間で目標を達成する」という意味が込められている。

 ここにあらわれているのは、「金日成への回帰」にほかならない。「万里馬」と「二百日戦闘」は、金日成時代の「千里馬」「百日戦闘」を模倣したものだ。

 実は、このような金正恩の「金日成回帰」路線は、父・金正日によってすでに定められていたものだ。


左:金正日 右:金正恩 ©共同通信社

 そもそも二〇一〇年十月、金正日の死の前年、金正恩が初めて公式の席に登場したが、歩き方、刈上げられた髪、演説の様子、声の調子、太って腹の出た体躯、そして金正日の好んだジャンパー姿ではなく、人民服の着用に至るまで、金日成のそれをそっくりコピーしたものだった。それを演出したのが金正日なのだ。

 金正日は、息子の立場を固めるには、市場化の流れを食い止め、金日成時代の社会主義体制を再建する以外にないと考えた。それは金正日自ら「金正日時代」を否定することにほかならなかった。

「市場化」で社会主義体制が崩れた金正日時代

 金日成は党を中核とする諸制度による統治を標榜したが、金正日はそれを否定し、国防委員会にすべての権限を集中させる「先軍政治」を開始した。これは金日成の死という「国家的危機」を乗り越えるための非常手段でもあった。


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 しかし、金正日体制は発足直後からさらなる危機に直面する。天候不順と長年にわたる農業政策の失敗の結果、一九九五年から二〇〇五年の間に数十万名から数百万名が死んだといわれる「苦難の行軍」である。

 著しい食糧不足は、社会主義を支える基本である配給体系を解体させた。国家による配給が頼りにならず、自ら食糧を手に入れるほかなくなった一般人民は、党の許可なく農村に移動して、最初は物々交換、次第に貨幣を使い、食糧を獲得するようになり、全国各地に「農村市場」が成立していった。

北朝鮮の「市場化」は食糧不足によって促進され、金正日もそれを認めざるを得なくなったのである。こうした「市場化」は、北朝鮮社会を変容させた。国民にとって、上からの洗脳教育に参加するよりも食糧を手に入れることが、ひいては、金銭を得ることがはるかに切実になっていた。同時に、市場では国内外の情報が流通しだし、北朝鮮の人々は洗脳から覚醒し始めた。

 また、朝鮮人民軍も「市場化」の影響を受けざるを得なかった。政治将校を含め、首領に対する忠誠よりも個人的利益が優先されるようになり、軍規が弛緩していく。軍社会でも体制を支えるイデオロギー体系が溶解し始めた。