アテネをはじめとする都市国家は内紛に明け暮れながら、アジアの強大な帝国を仰ぎ見ていた

森谷公俊 帝京大学教授

 紀元前五世紀の古代ギリシア、繁栄の絶頂にあったアテネでは、風変わりなものが流行していた。ギリシア人の衣服は一枚の布を巻いただけで袖がないのに、長袖の付いた丈の長い上衣を着る人々がいた。奴隷に日傘を持たせ、頭上にかざして外出したり、室内では扇で自分をあおがせる女性たちもいた。こうした様子は現存する壺絵に見ることができる。長袖の上衣、日傘に扇、どれもペルシア風を真似たもので、上流の人々によって使われた。

 ペルシア風は個人の趣味に留まらない。民主政を動かす役人団の一つである評議員の詰所は円形で、上部は傘を開いたような円錐形をなしていた。アクロポリスの麓に建てられたオデイオンと呼ばれる建物は、正方形の敷地に九列×九列の柱が並んで四角錘の屋根を支えるという、当時のギリシアでは考えられない建築様式だった。これはペルシア王の天幕を模倣したと考えられている。このように公共建築にさえペルシアの様式が採用されたのだ。これは一体何を意味するのか。

 ペルシア軍の侵攻をギリシア人が撃退したペルシア戦争(前四九〇〜四七九年)からすでに数十年。ギリシア人は敗れたペルシア人を軽蔑し、彼らは王の奴隷も同然だと見なしていた。その一方でギリシア人は、ペルシア人が戦場に残した豪華な天幕や金銀の家具調度品に目を見張り、異国情緒あふれる文物に強いあこがれを抱いた。アテネが派遣した外交使節もペルシア王から豪華な贈物を受け取り、数々の舶来品をもたらした。その中には孔雀もあった。ペルセポリスの浮彫りにもあるように、日傘はペルシア王の権力を象徴する持物だった。アテネの上流市民がこれを真似たのは、自身の社会的地位を誇示するためである。奴隷は本来なら生産労働に使うべきなのに、日傘を持つ奴隷は何の価値も生み出さない。よって奴隷に日傘を持たせることは、生産労働とはかかわりのない奴隷を持つだけの財産を主人が有していることの証明となるからだ。

 通常は、戦争に敗れた側が勝った側の文化に憧れる。ところがペルシア戦争に勝利したギリシア人が、敗れた側のペルシア文化を模倣し、ペルシア趣味に耽るという、逆の現象が生まれたのである。

豊かなアジア、貧しいギリシア

 なぜギリシア人はこれほどまでにペルシア風を愛好したのか。世界史で習った印象とは逆に、ギリシアよりペルシアの方がはるかに豊かだったからだ。ギリシアの国土は山がちで痩せており、ブドウやオリーブは育っても、穀物の自給は難しく、一部を除いて貴金属も乏しい。対してペルシア人は小アジアから中央アジアにまたがる大帝国を築き、農作物から貴石に至る豊かな産物を有していた。

 へロドトス『歴史』第一巻によると、ペルシア以前に小アジアを支配したリュディア王国のクロイソス王は巨万の富を持ち、その名声はギリシア中に鳴り響いていた。同七巻では、スパルタから亡命した王がクセルクセス王に向かって、「ギリシアの国にとっては昔から貧困は生まれながらの伴侶のごときもの」(松平千秋訳)と語っている。

 前四七九年のプラタイアの会戦でペルシア軍が撤退した後、スパルタの指揮官は捕虜となった料理人に、ペルシアの将軍に用意するのと同じ料理を作らせ、山海珍味に驚きあきれた。戯れに自分の召使いにスパルタ風の料理を作らせると、あまりの落差に笑い出したという。アリストファネスの喜劇『蜂』では、大枚をはたいて織られるペルシア外套の逸品が言及される。東方世界の豊かさとギリシア世界の貧しさ、これが古代ギリシア史を貫く隠れた糸である。

内紛の陰にペルシアあり

 これまでの常識を離れてペルシア側から眺めると、古代ギリシア史はどのように描けるだろう。そもそもギリシアがそれほど貧しいなら、なぜペルシア王はわざわざ大軍を率いてギリシアに侵攻したのか。新たに即位したペルシア王は、自身が王にふさわしいことを証明するため、戦争の勝利を必要とした。クセルクセスは、父王ダレイオス一世が果たせなかったギリシア征服を実現することで、父の遺志を受け継ぐだけでなく、王としての威信を確立しようとしたのである。

 結局ギリシア征服は成らなかったが、その後のペルシア王たちは国土の安泰を確保するのに別の方法を採用した。ギリシア人の矛先がアジアに向くことがないよう、彼らを常に戦わせたのである。

 周知のように古代ギリシア人は統一国家を作ることはなく、ポリスと呼ばれる多数の都市国家に分かれていた。その総数は約一〇〇〇とも言われる。最盛期のアテネはエーゲ海の島々や小アジア沿岸の諸都市をデロス同盟に組織し、時にはペルシア領にも遠征軍を派遣した。

 前四三一年、このアテネがもう一方の雄スパルタに対して戦端を開き、ギリシア世界を二分するペロポネソス戦争が始まる。その末期にアテネの勢力が衰えると、ペルシア王はスパルタに軍資金を提供し、これによって建設された海軍が決め手となって、前四〇四年アテネは降伏した。

 ところが覇者となったスパルタが、小アジアのギリシア諸国を解放するとの名目で小アジアに侵攻する。ペルシア王はこの脅威を取り除くため、今度はアテネやテーベ等の有力国に資金を送り、反スパルタ同盟を結成させた。こうして前三九五年にコリントス戦争が始まり、スパルタは小アジアから軍隊を撤退させた。ペルシア側のねらい通りである。戦局は一進一退を重ねたが、アテネの海上支配の復活を恐れるペルシアとスパルタの思惑が一致し、前三八六年に講和条約(大王の和約)が結ばれた。それはギリシアの全ポリスの自由と自治を保証する一方で、小アジアのギリシア人がペルシア王に服属することを認めていた。このためスパルタは、大陸の同胞をペルシアに売り渡したとして非難された。

 その後もギリシア人同士の覇権争いは止むことがなかった。ペルシア王はその時々の有力国の後ろ盾となって和約を更新しながら、どのポリスも決して覇権を握ることのないようギリシア人を操った。こうする限り、ギリシア人が連合してペルシア領に攻め込む心配はない。前四世紀のギリシア世界は、大王の和約という国際的な枠組みの下、ペルシア王によって統制されていたのである。

 慢性的な戦争から抜け出せないギリシアでは、国内の政治抗争や経済的没落のために多くの市民が故国を離れ、生計のために傭兵となって各地を転々としていた。ギリシア人は優秀な兵士として評判が高く、ペルシア王も小アジアの総督たちもこぞって彼らを雇った。アテネの将軍も個人的な利得のために海外へ出かけ、傭兵隊長として活躍した。スパルタにいたっては、前三七一年レウクトラの会戦に敗れて一等国の地位から転落した後、王がみずからスパルタ兵を率いてエジプト王に雇われ、その手当で国の財政を立て直そうとした。国家ぐるみの出稼ぎである。そのエジプトは前五世紀末以降ペルシアから独立し、ペルシア王は何度も遠征軍を派遣した。両者は共にギリシア人傭兵に依存していたから、結局ギリシア人同士が敵味方に分かれて戦っているのであった。

 ペルシア王の統制のもとで戦争を繰り返し、国力を消耗させるギリシア諸国。国外を放浪しつつ王侯に雇われて生計を立てるギリシア人傭兵。これが前四世紀の、ペルシア帝国からは西の辺境にすぎないギリシアの現実である。東方遠征論も、実はこうした現実を前提として生まれた。