牛島信(弁護士)

沙織は目の前が真っ暗になって、世田谷区の上町に住んでいた姉に相談した。沙織としてみれば、3億4000万円なら土地の一部を売ればなんとかなるのではないかと思って、そう税理士に相談してみたのだ。ところが税理士は、いやそれでは売った土地にまた税金がかかりますと恐ろしいことを言った。沙織にはなにがなんだかわからなかった。

姉の夫は梶田修一という名で、地方の国立大学を出てから渋谷区役所に勤めていた。

相続税で税理士に会って以来、すっかり動転してしまった沙織は、梶田夫妻を訪ね、梶田修一に会社の社長を引き受けてくれるように頼んだのだ。しかし梶田修一はテーブルの向こうで茶をすするばかりで、黙ったままなんの返事もしてくれなかった。帰り際、鉄のドアの手前の玄関先で二人きりになったとき、姉の初代が「さっちゃん、もう一回私から亭主に話してみるから。あの人ももう年金が入る歳になってるんだし、次男坊の健助が会社のお世話になってるんだし。大丈夫。あの人だって、健助が会社を切り回せるようになるまでは誰かがやるっきゃないってわかってるから」

そう言ってくれた。

もともと沙織ら夫婦には子どもがいなかったことから、沙織と姉の初代の間では、沙織の夫が亡くなる前から、初代と修一の次男である梶田健助が向島運輸の将来を引き継いでくれたらいいという思いがあったのだ。だから、司法試験を目指しているという健助が大学を出てずるずると向島運輸に入社するのも、誰もが当たり前のように受け入れたのだ。

結局、梶田修一が区役所を定年前に辞めて向島運輸の社長をやってくれることになった。

妻のねばり勝ちだった。

夫は、晩酌を済ませて疲れた体を布団のなかで伸ばすたびに、隣の布団にから「ねえ、あなた、だめえ?ねええ」と毎晩、妻の言葉に攻め立てられたのだ。陥落するまでに1週間とかからなかった。

「そうだな。ま、俺も役所の年金も入ってくる年になっているからな。食いっぱぐれることはないか」と夫が言葉を漏らすと、妻は、

「そうよ、それがいい。今度は定年もない、気楽な仕事だし。そのうち健助がなにもかもやってくれるし」

と言って、夫の手を握った。

こうして、沙織から頼むようにして社長になってもらったのだった。

向島運輸という会社にはそれほどの資産があるということだった。梶田修一は社長になったあと、バブルの時代、「ウチの資産は50億は超えているからね。銀行がうるさくってたまらん」と口癖のように言っていた。そう愚痴ってみせてから最後には「とにかく財産を減らさないのが俺の仕事だ」と付け加えるあたりは、区役所に勤めていたときと少しも変わらない調子だった。

梶田修一が社長になってくれて、向島運輸のことからすっかり解放されてしまった沙織は、周囲からメリー・ウィドウだという評判がたつような元気な暮らしぶりだった。贅沢はしないことに決めていた。もうお金の苦労は相続税だけでこりごりだったのだ。それに、悲しんだところで夫が帰ってくるわけでもないと割り切ってもいた。身分相応に生きている間は生きていよう、と心がけ、日々亡くなった夫のお蔭で今の暮らしがあると感謝していた。

梶田修一は平成7年、1995年に75歳で亡くなった。

修一が亡くなったときには梶田修一と初代の次男である梶田健助が向島運輸に入っていて、もう20年近くが経っていた。当然のように健助が社長を継ぎ、沙織は相変わらず会社のことなどすっかり忘れて暮らしていた。毎年100万円の金が会社から入ってくる。それが配当なのか取締役報酬なのかも沙織は気にしたことがなかった。税金のことなど考えたくもなかったし、実際、考えたこともなかった。

三津田沙織という女性は、56歳のとき夫が亡くなって以来、生活の心配をすることがないままに年老いてしまったのだった。

梶田健助は父親が亡くなったときには40歳だった。健助が向島運輸に入ってしばらくして創業者の三津田作次郎が亡くなって、父親の修一が地方公務員から不動産会社の社長に転身したのだ。そのときには、健助は、義理の叔父である三津田作次郎から一種奨学金でももらうような格好で、向島運輸の形ばかりの従業員になって司法試験の勉強を続けていたところだった。

2つ違いの兄は大学で化学を学んで大きな会社に入り、技術屋として研究所で亀の甲を相手に浮世離れした人生を送っていた。健助は、一応私立の法学部に入って司法試験を目指すと称して、遊んでばかりいた。友人たちが就職に走り回っているのを、自分は司法試験を受けるのだから違うのだと冷ややかに眺めているうちに、どうやら司法試験に合格などとんでもない夢だと気づかされてしまったのだ。

「じゃあ、会社に入って司法試験の勉強を続けるか」