株価は上がれど、給料は増えず、利子も増えない。 何かがおかしい理由は、世界史的に見て異例の「超低金利」にあった

水野和夫 法政大学教授

私たちは今、大きな歴史の転換期にいます。「危機」の時代のただなかにいると言ってもいいでしょう。

それは、2008年にリーマン・ショックが起こったからではありません。今年、アメリカにトランプ大統領が出現したからでもありません。

それらは、危機の結果であって、原因ではないのです。

危機の原因は何か。世界史に大きな転換を迫っているものとは何か。それは日本に端を発して、今や世界に広がり、20年以上続く2%以下の「超低金利」だと私は考えています。そう考えるようになったのは、金利によって世界史を見たことがきっかけでした。グラフ1を見てください。それは16世紀から現在に至る金利、具体的には、その時代を代表する経済大国の国債利回りの変動を追いかけています。資本収益率は国債利回りと連動しているので、資本収益率の変化を見るのにも役立ちます。

グラフ1 水野和夫『過剰な資本の末路と、大転換の未来』(徳間書店)より

グラフを観察すると、超低金利すなわち、超低資本収益率が10年以上続いている時代は二つしかありません。一つ目は17世紀初めのイタリアのジェノバ(グラフ1「16世紀末の利子率革命」)、二つ目は20世紀末から現在に至る日本(グラフ1「21世紀の利子率革命」)です。私たちは金利がローマ法王によって認められた13世紀以降、二度しか起こらなかった異常事態のなかにいるのです。

資本主義は17世紀に危機を迎えていた

17世紀初めのイタリアは「長期的な超低金利」という見かけの類似点を超えて、今を考えるための有益な考察を与えてくれるのか。私は当時のイタリアで何が起きていたのかを調べてみることにしました。

 まず目に入ってきたのは、山という山の樹が伐採されて開かれたワイン畑でした。ワイン畑は、当時の最先端産業です。今なら、さしずめIT産業でしょうか。最先端産業は、これまでにない市場を開拓し、新しい付加価値を生み出しますから、非常に資本収益率が高い。しかし、それに惹かれて、多くの投資が集まり、多くの企業が参入しますから、次第に供給過剰になり、最後は熾烈な価格競争を迎えて、資本収益率は0に近づいていきます。見渡す限りの山がワイン畑になっている光景が意味するのは、すでにワインが過剰生産の域に達していることであり、その資本収益率が著しく低下していることです。そうなると、資本は他のより資本収益率が高い産業に向かうはずです。しかし、そうはならなかった。

 フランスの歴史家フェルナン・ブローデルはこの時代について、『地中海』で、イタリアの経済史家、カルロ・M・チポラの著作を引用しながら、「銀と金は投資の手段を見出すのが困難である。『資本がこれほど安く提供されたのは、ローマ帝国の衰退以来ヨーロッパの歴史において初めてであるが、これは実は並み並みならぬ革命である』」と書いています。もうこの時代の地中海世界では、あらゆる産業への投資が行き渡り、ワイン畑だけでなく、社会全体の資本収益率が低下していました。

 そうなると、利子率は下がっていきます。資本収益率よりも利子率が高ければ、お金を借りた方の手元に利益が残らなくなりますから、利子率を低くしなければ、お金を借りてもらえなくなるからです。これこそが、17世紀初めのイタリアの超低金利の原因でした。

 ジェノバの国庫貸付金の利子率は、16世紀の半ばから下がり続け、1611年から1621年まで2%を切る超低金利に入り、1619年には、1.125%まで下がりました。総資本収益率は国債利回りよりも少しだけ高くなりますから、2%前後だったでしょう。

 これは資本主義経済にとっては、「危機」にほかなりません。出資先の企業が倒産して、元本や利子が返済されない可能性もあるので、資本収益率が2%を下回ると、企業にお金を貸して、その利子を回収している投資家は成り立たなくなってしまうからです。企業のオーナーである資本家にしても、利子を払うと、ほとんど利益が残らず、生産設備の刷新や研究開発など将来への投資を行えなくなります。長期的に超低金利が続いたことによって、当時のイタリアを経済的な中心としていた西ヨーロッパでは、資本主義が停滞の危機に直面し、その社会の持続可能性が失われつつありました。チポラはその現実を「革命」と言い表したのです。

「超低金利」が中世から近代の大転換を促した

どうすれば、この「危機」を克服できるでしょうか。

最も簡単に思いつくのは、資本収益率を回復し、それに伴い、利子率を上昇させることです。

西ヨーロッパの歴史を俯瞰してみると、西ヨーロッパ全体が、16世紀半ばから下がりはじめた資本収益率を回復させるために政治、経済、社会、宗教のあらゆる分野で、大転換をはかったことが見えてきます。ブローデルは、この大転換が起きた1450年から1650年を「長い16世紀」と呼んでいます。

当時の西ヨーロッパ内部に資本収益率を上昇させる「新しいフロンティア」を見つけることは困難になっていました。そこで、西ヨーロッパ以外の新しい空間の発見が促されました。そこには高い付加価値をもたらす商品や新しい市場があるかもしれません。

しかし、当時、西ヨーロッパの東にはオスマン・トルコ帝国が成立しており、地中海からインド洋に向かう航路はイスラム勢力によって、堰き止められていました。西ヨーロッパは大西洋に出て行くことを迫られました。

1492年にコロンブスが新大陸を発見し、1498年にはバスコ・ダ・ガマがアフリカ南端の喜望峰を経由して、インドに到達する海路を開拓しました。ワイン畑に端的に表れていたように、投資先として限界に達した「陸」に代わって、「海」が新しい投資先として期待されたのです。結果はどうだったか。ブレイクスルーは成功しました。「海」の向こうにアジアや新大陸など資本収益率の高いフロンティアが発見されたのです。

それと並行して、ヨーロッパの政治体制も大きく変わっていきました。ワイン畑など土地に投資することで、収益を上げていた中世型の封建領主は、資本収益率の低下とともに没落していきました。それに代わって台頭したのが、商人と協力し、資本収益率の高いフロンティアを見つけることで、権力と財力を集中させていった国王です。このことはこの時代に資本と国家の協力関係が築かれたことを示しています。たとえば、コロンブスを支援したのは、スペイン女王のイサベルでした。

16世紀にアフリカ回りの新航路が発見されると、ポルトガルはインドのゴアに根拠地を置いて、東南アジア産の香辛料の貿易を独占し、スペインはアメリカ大陸に進出し、大農園を開いてインディオを安い賃金で働かせて高い資本収益率を実現しました。また、1545年のポトシ銀山の発見に代表されるように各地で大量の金銀を発掘し、ヨーロッパに持ち帰りました。

このポルトガルとスペインの覇権に挑戦し、それを奪ったのが、オランダとイギリスです。1588年、イギリスはスペインからの独立を宣言したオランダを支援して、スペインの「無敵艦隊」を破ります。これ以後、オランダとイギリスが「海」の覇権を手中に収めました。17世紀初めにはイギリスとオランダはそれぞれ東インド会社を設立し、アジアでの「海」の覇権を激しく争っていきます。

また、17世紀には清教徒革命、名誉革命を経たイギリスで、「国民(ネーション)」が創生され、資本と国家の協力関係に国民が加わり、「国民国家」が誕生します。こうして、資本・国家・国民が三位一体となって、新しいフロンティアを発見、開拓、独占する運動が始まります。この三位一体は世界中で模倣されていきました。

こうして西ヨーロッパ世界は、中世の荘園を中心とする封建制から近代的な絶対王政、その発展形態である主権国家、国民国家が中心的な役割を果たす近代資本主義へと転換していきました。この大転換の総仕上げが、西ヨーロッパにおける主権国家体制の根拠となる1648年のウェストファリア条約の締結です。

 世界史において、「超低金利」がこの中世から近代への大転換を促したといっても過言ではありません。

「海」の向こうにフロンティアが発見されることで、資本収益率は改善し、長期的な「超低金利」は克服されました。そして、そのフロンティアをいち早く見つけ、独占した国は、高い資本収益率に裏付けられた高い金利によって、お金を集め、覇権国になっていきます。しかし、高い資本収益率を生み出すフロンティアに投資が殺到し、多くの企業が参入すると、資本収益率は低下し、金利は下がります。すると覇権国は衰退します。

 しかし、かつてのフロンティアを独占していた覇権国には富が蓄積されています。その富の所有者は、その投資先となる高い資本収益率をもたらす新しいフロンティアを求めます。そして、その要請に応え、新しいフロンティアを発見し、独占した国が、旧覇権国の富を投資として吸収し、次の覇権国となっていきます。

 17世紀以降、20世紀後半に至るまでの世界史は、このようなサイクルに従ってなされた、オランダからイギリス、イギリスからアメリカへの覇権国の交代として捉えることができます。商業で築かれたオランダの富は、18世紀に産業革命を起こし、軽工業とインドというフロンティアを開拓したイギリスに吸収され、イギリスの富は20世紀に重工業や消費生活とアジアというフロンティアを開拓したアメリカに吸収されていったのです。