映画『この世界の片隅に』は我々の大規模定住社会が立ちゆかなくなる理由を示す




【<社会>の中で<世界>を、<世界>の中で<社会>を、夢見る】

■前回『裏切りの街』を論じた。そこでは、社会的な言語プログラム(象徴界)に操縦された<世界体験>(想像界)の、回避と受容がモチーフとされた上で、<社会>を拒絶した性愛の眩暈と、<世界>(現実界)の偶発的閏入が、受容を可能にする通過儀礼として描かれた。
■作品に内在する限りでは説得的なものの、理不尽な<剥奪=贈与>からなるフィジオクラティックな起点を想像可能だった前世紀の物語だと言わざるを得ず、映画を見終わった後に「これは我々の現在的な体験から遠く隔たっている」という違和感を抱かせられた。
■今回『この世界の片隅に』を扱う。『裏切り~』と同時期に公開された『この世界~』は奇しくも対照的に、言語プログラムに操縦された<世界体験>を・圧倒する<世界>(現実界)による<剥奪=贈与>の・回避と受容がモチーフだ。分かりやすく対照しよう。
■『裏切り~』の主人公らは、言語プログラムに操縦された<社会>への<世界>の閏入(妊娠)を“事後的に”望んだ。秩序立った<社会>が、<世界>という混沌の海に浮かぶ筏に過ぎない事実を想像できた時にだけ、我々はフラットな<クソ社会>を生きていけるからだ。
■言い換えれば、フィジオクラティックな起点を想像できた際にだけ、ヒトは<社会>を<なりすまし>の相で生き得る。古来フィジオクラティックな起点の想像を、祝祭が可能にしてきた歴史を思えば、『裏切り~』の主人公らは“事実上”祝祭を待望していたと言える。
■他方『この世界~』の主人公すずは、秩序立っていたかつての<社会>を一縷の望みの如く想像することで、<世界>からの<剥奪=贈与>、即ち<社会>の外部としての<世界>が与える怒濤の<世界体験>に、耐え・適応し・成長する。だが話はそれでは終わらない。

【フィジオティックな起点は<社会>の産物に過ぎない】

■ところが、玉音放送の“鶴の一声”で、<社会>の外部にある<世界>が与えるフィジオクラティックな起点たと思えたものが所詮は<社会>の──言語プログラムの──産物に過ぎなかった事実を、残酷にも突きつけられ、主人公は初めて呪詛を吐露することになる。
■有名な話を思い出す。なぜ日本人は原爆投下や東京大空襲をした米国を憎まなかったか。空からの攻撃だったから──。空襲は、自らを殺戮しようとする相手の顔が見える地上戦が巨大な憎悪を刻むのとは対照的に、天災(天変地異)のように体験されるというのである。
■地上戦を体験した沖縄の年長者が挙って米兵への怨念を語る現実を想えば、そうかもしれない。ここで「天災の如く体験される」とは、<社会>の外部にある<世界>からの<剥奪=贈与>(フィジオクラティックな起点)として受け止められるという<世界体験>の形式を意味する。
■だが、「空襲か、地上戦か」は所詮、天ならぬ人が選ぶことだ。ことほどさように、フィジオクラティックな起点(天災による剥奪)に見えて、実際のところソーシャルな決定(人災による剥奪)に過ぎない、といった事態が、様々なバリエーションをとって現実にはあり得るのだ。
■『この世界~』の主人公すずは、自然災害に見舞われた<社会>に適応するかのように、戦況の悪化した<社会>に適応し、成長するだろう。ところが「終戦の詔勅」によって、“自然災害”が単に言葉によって──人為によって──もたらされたことが一瞬で明らかになる。
■<社会>にそもそもの前提を与えるフィジオクラティックな起点、即ち<社会>の外部にある<世界>からの<剥奪=贈与>。そう思われたものが、結局は<社会>を作りなす言語プログラムによって操縦された<世界体験>に過ぎないという酷薄な事実が暴露されたのである。

【平和な<社会>はそれゆえに<クソ社会>に頽落した】

■だから主人公すずは激昂する他はない。怒りは恐らく2方向に及ふ。1つは、フィジオクラティックな起点(=<世界>からの贈与と剥奪)を偽装した<社会>への怒りで、もう1つは、<世界>に適応したつもりで<社会>に適応してしまった自分という<パーソン>への怒りである。
■これを支配層(に騙された自分)への怒り、天皇陛下(に騙された自分)への怒りだと理解すれば──そうした理解が目立つ──この作品は“単なる”反戦映画になる。「友/敵」図式を用いて敵を名指し、カセクシス(充填)とカタルシス(解放)の回路を駆動させるということだ。
■しかし本作は、支配層や天皇ではなく、<社会>という摂理を問題にしている。そうした「充填と解放の回路」を駆動させても何も変わらずに反復する摂理こそが描かれるのだ。そのことはエンドロールを通じて表現される強烈なアイロニーによって更に強く印象づけられるはずだ。
■エンドロールでは、敗戦時に激昂した主人公が、時を経るにつれて、秩序を取り戻した<社会>の中で、自らの右手と共に吹き飛ばされた姪の、生まれ変わりとして迎え入れた戦災孤児の少女と一緒に、幸せになっていくだろう姿が、示される。これはむろんアイロニーである。
■20年以上前であれば我々はハッピーエンドとして受け止めたかもしれない。だが我々は既にこの20年間の「成れの果て」を知っている。秩序を取り戻した<社会>の延長線上で、我々がどんな<クソ社会>を体験せざるを得なくなっているのかを、弁えているのである。
■<クソ社会>の中で、共同性を剥奪された我々は、スーパーフラットさに倦んだ上、「正義と享楽の分離」ならびに「享楽の優位」を生きている。つまり「正しいが楽しくない」平和主義者を鼻でせせら笑い、「正しくなくても享楽に満ちた」ヘイトクライムに淫している。
■戦時は暴力的悲劇に面しつつ、天災の如く受けとめた。震災と戦災が区別されていないが、間違いなく「災」は体験されていた。そう。<社会>の外が露呈していた。だが今は違う。<社会>の外が見えないスーパーフラットさゆえに、我々は<社会>の外を欲望する。