是枝氏は番組で「うちのカレーは世界でいちばんおいしい」という牛乳屋さんの長男をスリランカに連れて行き、そのカレーを現地の人達に食べさせた。是枝氏は素人の作ったカレーが本場スリランカの人びとにこき下ろされるというシナリオを考えていたのだが、現地で彼のカレーが「ウマイ、ウマイ!」とウケてしまった。慌てた是枝氏は現地のコーディネーターに頼み込み「マズイマズイ、こんなのカレーじゃない」と言ってもらったというのだ。

完全に「やらせ」なのだが、パニック状態の是枝氏はそのことを隠そうともしなかった。その様子を見ていたある先輩カメラマンが、是枝氏にこう言った。

「おまえ、こんなものが撮りたいのか。こんなものが撮りたいんだったら、何も朝から市場でカレーをつくる必要はなかった。彼が苦労をして、僕らも汗だくになって、半日かけて撮影したことに何の意味もないだろう。最初からこれだけ撮ればよかったんじゃないか。」

文春新書『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』p.118

是枝氏はこの一言にハッとし、本当に撮るべきものに気づいたという。

僕の予想と違う現実が起きてしまったとき、そこに本当のドキュメントが生まれるはずだった。それこそを撮るべきだったのに、僕は自分が敷いたレールから外れてしまったその部分は撮らずに、「これはダメだ、これじゃ番組にならない」と、自分の敷いたレールのほうに番組を戻してしまった。そして、そのまま放送してしまいました。

文春新書『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』p.119

数年後、この事がはっきりと分かるようになった是枝氏は、出演者してくれた牛乳屋さんの長男に謝罪したそうだ。

ただでさえ不確定要素の多いコンテンツ制作を生業としていると、どうにかして予定通りに進めようとしてしまいがちだ。「やらせ」はやってはいけないことだが、駆け出し時代の是枝氏が、なんとか自分の番組を成立させようと四苦八苦していたことが伝わるエピソードである。

今回取り上げなかったものも含め、本書には登壇者4名の「何者でもなかった」頃の話がふんだんに収められている。学生達を勇気づけるために語られたエピソードの数々に触れれば、思わずやる気が湧いてくること間違いなし。就職活動を控えた学生など、新たな挑戦を始める人にうってつけの一冊となっている。

最後に本書から、ゴリラ研究で知られる京都大学総長・山極壽一氏の話を紹介したい。

人間の一番重要な能力は、諦めないということです。動物はできなかったら諦めちゃう。人間はしつこいんです。なかなか諦めない。失敗しても失敗しても諦めない。だから人間は空を飛べるようになったし、海中深く潜れるようになったし、様々な道具を発明して、人間の身体以上のことができるようになった。

(中略)

ただし、塩梅というのも必要です。ずっと諦めないで何も成就しないまま人生を終わるということもあり得る(笑)。だから、どこかでちゃんと見極める必要があります。そのために、友達っているんですよ。「ちょっとおまえもういい加減にしとけよ」って言ってくれる友達が必要なんです。それはインターネットでは得られないでしょう。

文春新書『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』 p.201-202

友人の少ない筆者には耳の痛い話である。

僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう (文春新書)
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