ジャーナリスト 宮本喜一=文・写真

銀座ソニーパークプロジェクトが始動

今、数寄屋橋交差点のソニービルでは、同ビルとして最後のイベント、It's a Sony展が開催されている。ソニーが東京・数寄屋橋交差点角にあるソニービル(中央区銀座5-3-1)を50年ぶりに全面的に建て替えるからだ。現在のビルが存在するのは今年の3月末まで。それ以降、同社の銀座ソニーパークプロジェクトが本格的に始動するという。

ソニービル銀座。ビルの側面にはソニーパークの告知。

プロジェクトの第1期は2018年から2020年、東京オリンピックまでの約3年間。この間、現在のビルを解体したあとの700平方メートル(約210坪)あまりの土地を、公園にして、誰もが過ごせる空間として運営する。その公園の名称は「銀座ソニーパーク」となるという。

第2期は2022年以降。ソニーパークを運営しながら新ソニービルの構想を練り固めたのち2020年秋に着工、同22年秋に営業開始の予定。

なぜ建て替えるのか? その背景を探るには、現ソニービル誕生の経緯にまでさかのぼるのが早道だろう。

今のソニービルが開業したのは東京オリンピックが開催された2年後の1966年4月29日。その建設費は32億円。当時のソニーの資本金に匹敵する金額であり、それだけに同社にとっては失敗の許されない一大プロジェクトだった。地上8階、延べ床面積8811平方メートル(約2600坪)のビルの大半にショールームの機能を持たせた、当時の日本としてはまさに前例のない試みだった。土一升金一升とまで言われる高価な土地に、なんと企業一社で、売り上げを見込めない、つまり利益とは無縁の単なるショールームをつくった、ということで大いに世間の注目を集めたものだった。

開業から2日後の5月1日付け日本経済新聞朝刊に、盛田昭夫がこのことに触れた文を寄稿している。

「……このビルの建設について、手放しで喜んでいいのかどうか、いまだに悩む点が無きにしもあらず、である。そのひとつは、電気の専業メーカーであることをモットーとしてきたわれわれが、日本で一番値の高い土地(中略)、そんなぜいたくな所にビルなどを建てること自体正しいのかどうか……」

さすがの盛田にも一抹の不安があったようだ。しかし、その半面で盛田にはそれなりの自信もあったと思われる。なぜなら、ソニーはその4年前の1962年9月に、ニューヨークの一等地五番街の一角に、170平方メートル(50坪)ほどのショールームを開設し、大成功をおさめていたからだ。開業に合わせるように売り出した、当時世界初の5型という小さなトランジスタテレビ(TV5-303・日本国内価格6万5000円)がいわば“目玉”となり、連日多くの人が押し寄せた。その盛況ぶりから日本では『五番街の日章旗』(講談社)というノンフィクションまで出版されている。まだまだ戦後からの復興途上にあった極東の国の、それも小さなエレクトロニクス企業のニューヨーク“進出”は、ソニーのブランド戦略上何ものにも代え難い強力な武器になった。

ソニービル、開業50周年の決断

It`s a Sony展で展示されているウォークマン(中央)と、その原型となったプレスマン(右)。ウォークマンに付属されていたステレオヘッドホン(左)。

五番街のショールームに勢いを得ていたとはいえ、ソニービルの建設にあたって盛田をはじめ関係者を悩ませたのは、ビル全体のショールームというものをどのように仕上げるのか、その基本的な構想だった。盛田はニューヨークにあるグッゲンハイム美術館にそのヒントを求める。同美術館のフロアがらせん状になっているため、来訪者は最上階から鑑賞を始めるとそのまま1階にまで行き着く。そこで盛田が思いついた構想が「タテのプロムナード」だった、と前述の寄稿文で明かしている。人が歩き回る歩道を水平ではなく、垂直に展開することで、狭小な土地を最大限に活用する、という斬新なアイデアだった。当時設計を依頼されていた芦原義信氏は、この構想を受けて花びら構造のフロアを考案する。

ベータマックス第1号(SL-6300)とビデオカセットテープ。

こうして当時としては構想、構造ともに画期的なショールームビルが完成したのだった。

昨年、このソニービルは開業50周年を迎えた。その半世紀の間にこのソニービルを取り巻く環境が大きく変化。第一にソニー自体がかつてのような“電気の専業メーカー”から大きく脱皮して、金融、娯楽のビジネスも手がける世界的な企業に成長した。ソニービルそのものについても、独創的だった花びら構造のフロアが法律に適合しなくなると同時に、バリアフリーという社会の要請にも、物理的に応えられなくなってきた。

こうした状況のもと、ソニーのCEO兼社長・平井一夫はソニービルに思い切った変化を与えることにしたという。ソニー自体も創業70年という節目であったことも平井の背中を押した。

その変化とは何か? 何であるべきか?

そこで、今から4年前2013年の春、平井は号令をかける。これが銀座ソニーパークプロジェクト発足のきっかけになった。このプロジェクトのリーダーには永野大輔が指名される。2012年、平井が副社長になったときからの直属のスタッフで、肩書はCEO室シニアマネジャー、コミュニケーション・クリエイティブ担当。永野は言う。

「ソニービルに変化を、という場合、考えられる選択肢はふたつ、改装かそれとも建て替えか、です。今のソニーは単なるエレクトロニクスの企業ではなくなっており、このエレクトロニクスとともに、娯楽、金融も含めた三本柱を持つ経営体になっています。これらを統合した発信基地の機能をこれからのソニービルは持つ必要があるのではないか。そうだとすれば、今のソニービルでこの要求を満たすのは困難、言い換えれば、器ではなくなっている、と判断しました」

したがって、彼らの結論は改装ではなく建て替えとなった。それでは、どのようにソニービルを生まれ変わらせるのか?

その答えを求めてプロジェクトのスタッフは、原点回帰をする。その試みの過程で、プロジェクトチームはソニービルを企画した当時の盛田の構想にあたったという。そこで彼らが出会ったのは、「盛田の“銀座に恩返しし、銀座の街に開かれた空間にする”という思い」だったと永野は明かしている。