今日の甲州は朝から快晴です。さすがに朝晩の冷え込みは厳しいです。

さて、先週とりあげて好評だった、NYタイムズ紙に掲載された意見記事の要約です。

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デモの規模は本当に重要なのか?
by ジーナップ・トゥフェックチー

全米各地(と世界各国)で先月行われた「女性の権利デモ」(the Women’s March)は、おそらくアメリカ史上最大規模のデモとなったはずだ。350万人が参加したという推測もある。

ということは、もちろん何かしらの意義があったはずであろう。

ところが過去20年間に行われてきたデモ行進を調査した人間として、私はここでみなさんに悪い知らせをお伝えしなければならない。

それは、デジタル時代のデモの規模は、そのムーブメントの強さを測ることができるだけの信頼に足る指標ではなくなっている、ということだ。過去に行われたデモ行進の参加者数との比較は、とりわけ誤解を生みやすい。

いまや「多くの人がひとつの場所に集まった」というだけでは、そのデモの力を示すことにはならない。むしろデモというのは、そのムーブメントの潜在力を象徴しているだけなのだ。

自然界とのたとえから考えてみよう。トムソン・ガゼルは草を食べている時に、目的もなく突然高く飛び跳ねることがあるが、これは捕食者に対して「これだけ高く飛べるのだから速く走れます、だから追いかけても無駄ですよ」と伝えている。

これと同じように、デモの参加者も「われわれはこれだけ集まれるのだから、本気だしたらどうなるかわかってますよね」と発信していることになる。

ところが大規模なデモを開催するのは以前よりもはるかに容易になってきている。たとえば過去には大規模なデモのためには少なくとも数ヶ月の準備期間が必要であった。たとえば1963年の「ワシントン大行進」は、その準備が9ヶ月前となる1962年12月から始めらている。

結果として25万人が集まったが、それ自体は今日の同規模のデモよりもはるかに多くの努力やコミットメント、そして準備を象徴したものであった。

フェイスブックやツィッター、Eメール、携帯電話、そしてクラウドファンディング無しでそのようなデモを組織するということは、まさに公民権運動のようなムーブメントの強さと精緻さを必要としたのである。

最近の大規模なデモが、政策面での実質的な結果につながらず、期待はずれに終わっている理由はまさにここにある。

私は2003年2月に開催された反戦デモにも参加したことがある。このデモは当時において世界中で行われた史上最大規模のデモであるとされ、世界の600以上の都市で行われた。

私は「さすがにアメリカとその同盟国たちは、これほどの規模のデモを無視するわけにはいかないのでは?」と思ったが、ジョージ・W・ブッシュ大統領はデモを「単なるフォーカス・グループによって行われたものでしかない」として退け、実際にわれわれを無視して、そのすぐ後にイラク戦争が始められたのだ。

ブッシュ大統領は、実際は1つの面で正しかったといえる。デモの参加者たちは、ブッシュ大統領を2004年の選挙で敗北させるまでの政治的に力には変えられなかったからだ。

私は2011年の「世界占拠」デモにも参加した。これは80カ国以上の1000都市以上で開催され、これも当時の時点で再び史上最大規模となり、テクノロジーの発展のおかげでもあって、たった数週間で組織されたものだ。

ここでも私は、経済格差に対するこれほどの大規模な抵抗運動のおかげですぐに政治・経済面で変化が起こると楽観視していたのだが、やはり間違っていた。前回と同様に、残念な結果にしかつながらなかったのである。

その後、世界中で似たようなデモが開催されているが、いずれも実質的な成果にはつながっていない

もちろんこれは、デモの重要性が失くなったということを意味するわけではない。デモはいまだに重要だ。

だがわれわれは、その捉え方を変えるできであろう。近年のデモは、組織的な努力の成果として見るのではなく、むしろその運動の、最初の潜在的な第一歩として捉えるべきなのだ。

今日の大規模なデモというのは、1963年の「ワシントン大行進」ではなく、どちらかといえばローザ・パークスがバスで白人に席をゆずるのを拒否したという行動に近い。

つまり以前は「最終地点」だったものが、現在は「最初の火花」になっている、ということだ。

デモの重要性というのは、以前にもまして「その後に起こること」に左右されるようになったのである。

2009年のティーパーティー(茶会党)運動を思い出してほしい。この時も全米の多くの都市に何十万人もの人々が集まり、デジタルコミュニケーションの助けを借りて動員されている。

そして他のデモ(先月の「女性の権利デモ」も含む)と同じように、これらはムーブメントへの支持を象徴的な形で表明したものであり、自分と同じような考えを持つ仲間と知り合うことのできる「イベント」としての機能を持っていたのだ。

ところがティーパーティーのデモ参加者たちは、自分たちの目指す政策を実現させるために猛烈な働きかけをした。それは、自分たちの支持する候補者を見つけて予備選挙に出し、それに抵抗した共和党員に挑戦し、政策のプロセスを見守り、ティーパーティーの方針からはずれる政治家に圧力をかけることなどだ。

先週ノースカロライナ州で開催された「女性の権利デモ」に私自身も参加したが、その参加者の数の多さと行進する人々の情熱の熱さに驚かされた。

ただし、これらのデモの参加者たちが互いの連絡先を交換せず、地元での戦略会合も開かなかったら、その数の多さもティーパーティーの支持者たちが2009年のデモの後に獲得したような影響力を持つことはできないだろう。

当然ながら、ムーブメントを進める上で参考すべきはティーパーティーだけではない。ところが街をデモ行進するだけでは何の結果も生み出すことはできないのである。

私が参加したノースカロライナ州のデモは、「さあ仕事を始めよう」(Let’s Get to Work)という歌をみんなで歌ってお開きとなった。そして今日のデモにとって、この歌の題名ほどよく当てはまるメッセージはないのである。
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これもテクノロジーの進化のパラドックスですね。