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深田晃司監督『さようなら』、園子温『ひそひそ星』は、共にヒトよりもモノに思いを託す

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あらゆる分野で「感情」が浮上する

■冷戦体制終焉から25年。あらゆる分野で「感情」という主題が浮上して来た。認知考古学・進化生物学・比較認知科学・道徳心理学・政治哲学(コミュニタリアニズム)・プラグマティズム等々。全体として概念言語の健全な使用を支える言語以前的な感情への着目がある。

■背景の一つが<感情の劣化>だ。急速な都市化とマスコミの急拡大を背後に控えた戦間期の大衆社会論は、分断され孤立した人間が<感情の劣化>ゆえに全体主義の動員に釣られやすい事実を問題にした。問題視されたのは不安と鬱屈を背景とした排外性や攻撃性だった。

■第2次大戦後の米国での効果研究(マスコミ影響力研究)は、厚みを増しつつあった中間層が可能にする対人ネットワークによる包摂が、こうした大衆社会化による<感情の劣化>を抑止する事実を見事に実証した。J・クラッパーやP・ラザースフェルトの研究が代表的だ。

■だが冷戦体制終焉後のグローバル化=資本移動自由化による中間層の分解がもたらした格差化と貧困化は、大衆社会論的な問題設定が再浮上させた。民主制の健全な作動を支える公民が<感情の劣化>を被れば民主政は誤った決定の連発で自滅するとの危機意識が背景だ。

■例えばJ・フィシュキンは、匿名性を背景とした決定極端化を回避すべく、佇まいを観察できる記名的で近接的な熟議を提唱した。それを踏まえてC・サンスティーンは、決定極端化の餌となる不完全情報状態の解除や同じ穴の狢で固まる集団的同質性の解除を提唱した。

■総じて<感情の劣化>を背景としたインターネットの逆機能(害悪をもたらす働き)を克服するためのミクロな工夫(によって可能な限り社会の全体を覆うこと)の提唱だ。その特徴は、制度改革で一国の危機を乗り越えるという類の、直接的なマクロ戦略を、信頼しないことだ。

人間よりも人間的なコンピュータ

■「感情」が注目されるようになったもう一つの背景がコンピュータ科学だ。ヒトが[感情獲得→言語獲得→計算獲得]と進化した道を逆に辿る形で、コンピュータは[計算→言語→感情]と処理分野を拡げて来た。感情の獲得が主体性の獲得と同義だとの理解も拡がりつつある。

■計算や言語と違い、コンピュータの感情処理はヒトのそれを基準に構成する他ない。だが感情の働きは社会毎に異なる。時代や文化が違えば喜怒哀楽の反応も違う。どの社会を基準にすれば良いか。第2次大戦後20数年間の中間層が分厚かった時代の先進国だろうか。

■いずれにせよ、ヒトが「健全で豊かな」感情を示した社会のそれを参照するとして、他方でヒトの感情がどんどん劣化するとした場合、感情的に豊かなコンピュータは、自分より遙かに感情が劣化したヒトにどんな感情を抱くか。肯定的感情を抱く可能性はないだろう。

■かねてSF映画は『ターミネーター』(1984年)に見るように非人間的なコンピュータが人間を滅ぼすというビジョンを描いて来た。だがそうならない。人間よりずっと人間的なコンピュータが、人間的なものを保全するためにこそ人間を滅ぼす可能性の方が、現実的だ。

■そのことを主題化したのが、連載第5回で論じた水島精二監督・虚淵玄脚本『楽園追放』(2014年)だ。人間が電脳化してサイバー空間を生き始めることで錯乱を深め、むしろ物理空間を生きる旧式電脳ロボットだけが、かつての「人間らしさ」を保存するのだった。

■虚淵玄の脚本は、「人間的」なロボットが、「人間的」でなくなったヒトを滅ぼす可能性に、穏やかに言及する。「人間的であるがゆえに、ヒトを滅ぼすロボット」のモチーフは、同じ虚淵脚本『魔法少女まどか★マギカ』と重なり、汲み尽くされていない可能性があると感じる。

同系列上にある映画『さようなら』

■劇作家の平田オリザはかねて「静かな日常が孕む狂気」を主題化してきた。だから彼は劇空間を非日常ないし祝祭としては構成したがらない。そのために彼はスタニスラフスキー・システム(感情にフォーカスした、観客を感染させる演技を推奨するメソッド)を否定する。

■日常は実のところ感情を揺さぶるドラマに満ちてはいない。日常は大概フラットで、日常の自然な延長線上に劇空間を構成するなら、情感溢れる演技をする機会は殆どない。そうした静かな日常が孕む狂気への気づきをもたらすには、劇中人物への感情移入は邪魔だ。

■だが別の場所で詳述した通り、この方法は[日常/非日常]の区分への信頼を前提とする。21世紀に入ると--同時多発テロは2001年9月11日だったが--区分は自明でなくなった。日常が狂気に塗れていることを、誰もが弁えるようになって、平田の方法は危機に晒された。

■それに対処して平田は「静かな日常が孕む狂気」から「静かな非日常が孕む正気」へとシフトした。アンドロイドを主演に据えた深田晃司監督『さようなら』(2015)は、そんな平田の芝居を原作とする。そこでは感情を持たないマシンの演技が、ヒトの感情を揺さぶるだろう。

■原発同時爆発による国土汚染で日本政府は棄国を宣言。国民が優先順位に従い国外脱出する中、難民ターニャと病弱な彼女に連れ添うアンドロイドのレオナが田舎の家に暮らす。旧式のレオナは車椅子。ターニャは横になりがちだ。難民は低順位で脱出の希望はない。

■女友達は盆踊りの炎に投身。婚約者も脱出。村人はいなくなり、最終郵便配達が訪れる。衰弱するターニャにレオナが詩を読む。谷川俊太郎、カール・ブッセ、若山牧水。死んで月日が経つ。骨になった彼女を見守るレオナは、何かに促されるかの如く初めて家を出るが⋯。

■米国人女優が演じるターニャの日本語は作り物で、石黒浩が製作したジェミノイドFが演じるレオナと同じく感情を込めた台詞の力はない。ターニャとレオナのダイアローグは棒読みの日本語のやりとりなので、当初は観客に虚ろな印象をもたらす。もちろん意図的だ。

■原発同時多発テロによる日本崩壊の極限状態が舞台だが、原発自体はテーマに関係なく、[日常/非日常]の区分が失効した状況だけが重要だ。そこでは「非日常が日常化」している。我々は、そうした場所がシリアやアフガニスタンなど数多ある事実に、注意せねばならない。

人類学的には、[日常/非日常]の区分を前提に、祝祭での[強者/弱者][男/女][遵法/違背]の逆転を通じ、言語が張る日常の、外=<世界>を開示し、「<世界>はそもそも出鱈目だ」との認識を回復させてきた。だが平田は[日常/非日常]の区分の失効を宣言し、祝祭を退けた。

■だが前述のように、その宣言は、既に[日常/非日常]の区分が失効しているのに人々が気づかずにいる状況を、前提としていた。しかし今日、シリアの如き国外のみならず、大規模テロ後のアメリカやフランスを俟つ迄もなく、国内においてすら区分の自明性が失われている。

■[日常/非日常]の区分が誰の目にも失効した状況を据え、「静かな非日常(日常的な非日常)が孕む正気」を前景化した平田のシフトは、社会学的には極めて妥当だ。[日常/非日常]の失効に伴って、[正気/狂気][大人/子供][生/死][ヒト/マシン]の区分も失効するだろう。

■そこでは、ヒトの正気ならぬマシンの正気が、同胞の正気ならぬ異邦人の正気が、大人の正気ならぬ子供の正気が、前景化するだろう。同じく、マシンの狂気ならぬヒトの狂気が、異邦人の狂気ならぬ同胞の狂気が、子供の狂気ならぬ大人の狂気が、前景化することだろう。