これだけ情報があふれた流動的な社会では、「最適な選択」なるものは単なる幻想に過ぎません。どんなに「最適な選択」をしたつもりでも、少し時間が経てば状況が変わり、「あれば間違いだったのではないか」「不適切だったのではないか」と思い返することになり、さらに不安に襲われます。こうして、安心ベースだった社会のあり方が、不安べースへと変化してしまうのです。これは、良いのか、悪いのか、ということです。答えは自明です。

――どのように対処していけば良いのでしょうか

 抽象的には、〈最適化〉原理から、〈満足化〉原理への「復帰」が必要です。経済学者は、利潤の最大化(投資効率の最適化)が人間の行動原則だとする仮説に立ちます。しかし、これは企業やファンドなどの資本の動きについて妥当するものの、実は僕たち自身はそのように生きていません。「最適」でなくても、特に問題がなければ(そこそこ満足なら)前に進む。それが〈満足化〉の原理です。この原理は共同体の自明性ともにあります。

 周囲が「それで問題ない、大丈夫だ」と言う以上、「いや、最適じゃないんじゃないか」と云々する細かい人がいると、共同体の皆が慣れ親しんだ前提を、破壊してしまいます。逆に、共同体が空洞化した状況で、自分だけで何かを調達しようとすると、ついつい「最適じゃないんじゃないか」と疑心暗鬼になりがちです。たとえば「子供の頭をもっと良くできるんじゃないか」というのが典型ですが、これは子供の人生を台無しにします。

 共同体の皆が慣れ親しんだ前提が空洞化すると、安心(〈満足化〉)の規準が分からなくなるので、親が安心しようとして、そうなってしまいます。僕は六つの小学校に通う転校生でしたが、僕自身けんかが弱くても、けんかの強い子と友だちになる力があったから、心配ありませんでした。